昨日15日の土曜日は、小雨混じりの肌寒い一日だったが、今日は一転して快晴!
このところのお天道さんはやや気まぐれで、その日その日の照り具合にムラがあって身体の調整機能も戸惑いがちである。
これまで遠慮がちに様子を窺っていた越後の桜も、満を持していたかのように見事に咲き誇っている。
日本人の普通の感性ならば、桜の花の持つ淡麗さ、潔さには一種独特の感慨を覚えるのではないだろうか。
“ 散る桜 残る桜も 散る桜 ” (良寛)
“ 願わくば、花の下にて春死なん その如月の 望月のころ ” (西行)
西行の句の「花」は、梅か桜かの論争は残るようだが、冬の厳しさからようやく解放されて、温かな匂いの広がってくる春の季節の幸せ感がいっぱいに漂う。
ところで、この4月に新しい人生を歩み出した数多の若人は満開のこの桜をどんな気持ちで眺めているものだろうか。学生さんにしろ、新社会人にしろ、緊張の
続く日々で「桜どころではない・・・」のかも知れないが。
先日、上越新幹線の車両にこんなキャッチコピーを見つけた。
東京に来た日
よし 頑張るぞと
一人で 乾杯した
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根っから都会の人にはピンと来ないだろうが、我々のように地方に生まれ育った者にはまことに心に染み入るフレーズである。
生まれ故郷を後にして、親元を離れて勇躍(?)都会生活を新たに始めようとする学生、あるいは社会人の心情を心憎いまでに微妙に表現していると痛く感心した。
我が母校である慶応大学では、卒業50年の節目に当たる卒業生をその年の入学式に招待してくれるという良き慣例がある。
昭和42年(1967年)卒業の私も今年がそれに該当し、せっかくのワンチャンスなので先日参加してきた。
キャンパスの銀杏並木はほぼ当時の面影のままだったが、日吉の駅舎はすっかり
モダンに、そして雀荘が数多く並んでいた街並みは洒落たブティックやマンションに・・・、50年の歳月をまざまざと感じた。
難関を突破し、晴れの入学式を迎えた眩しいばかりの新入生を目の当たりにするにつけ、50年前のかすかな記憶を辿りつつ生々流転の心境に至り、貴重な一日だたった。
勢い込んでスタートした若者だが、人生は甘くない。
落ち込んだり、出口の見当たらない苦境に出会うこともあるだろう。
その一つひとつを乗り越えながら、今日の桜のように毎年の春を重ねていってもらいたいものだ。