2011年11月アーカイブ

去る10月7日の朝日新聞に「放置16年 ホテル開業へ 北朝鮮 来春に一部」という記事が掲載された。その概要は次のようなものだが、思わず引き込まれるように読んだ。

 

「北朝鮮の平壌で16年間にわたって工事が中断していた柳京ホテルが、来年4月の一部オープンを目指して工事が再開された。105階建て、高さ320メートルを誇る同ホテルは、来年4月の故金日成主席の生誕100周年に合わせて地上20~30階までが部分開業になる・・・・」と。

 

今から17年前の平成6年の11月15日の夕刻6時過ぎ、私は既に暗闇に包まれた平壌の順安(スナン)空港に到着した。それから4泊5日の北朝鮮滞在を経験したが、そのときに目にした柳京ホテルのことが、この記事によって懐かしく思い出された。

そもそもこのホテル、北朝鮮が平成元年に開催した第13回世界青年学生祭典に間に合わせるべく着工されたものだが、その後の資金不足から外枠が完成した状態で工事が中断され、放置されたままでの情けない姿をさらしていた。

16年間も野ざらしだったものが、急に思い出したように来年の祝賀に間に合わせるべくどこからの指示なのか工事が再開する・・・、かの国の意志決定の仕組みの不思議さを改めて感じざるを得ない。

 

私の北朝鮮訪問の主目的は、中国・北朝鮮・ロシアの3国の国境にまたがる豆満江の河口一帯を、極東最大の「自由貿易都市」にしようという国連開発プロジェクト(UNDP)の現場を一度見ておきたいというものであった。

北朝鮮北東部に位置する羅津(ラジン)、先鋒(ソンボン)、清津(チョンジン)の3港は、冬季にも凍らず、干満の差も少ない。かって満州北部を統治した関東軍参謀の石原莞爾をして「羅津港は真に東亜における第一の天然の良港である」と言わしめたほどである。

日本海に海を持たない中国、極東に港湾施設を持つものの冬季の結氷に悩まされるロシア、この両国にとっては垂涎の的とも言える「出口」なのである。

 

当時この豆満江開発は頓挫してはいたが、日本海に面した柏崎市として「将来に大化けするかもしれない」この壮大な計画の現場を一度は見ておきたいと、東京や新潟からの有志8名で乗り込んだ視察の旅であった。

因みに、小泉総理の電撃的な訪朝により北朝鮮の拉致問題が明らかになり、蓮池さんご夫妻が柏崎に帰国出来たのは、私の訪問から8年後のことであり、当時は未だ「神隠し」に遭った様な暗い闇の中の出来事としてしか扱われていなかった。

 

さて、豆満江(中国名では図們江)開発の現状。

 

国連の構想発表から20年。かっての国連に代わりお隣中国の主導で、長らく停滞していた計画がようやく動き出した。

中国国境と羅津港を結ぶ約50㌔の道路は殆んどが北朝鮮領土だが、中国側の費用負担で舗装工事が進められている。もちろん工事の請負も中国企業。

羅津港の第1埠頭は、中国企業が10年間独占的に使用する契約を結び、今後はこの地帯を国際的な物流・観光の拠点に育てようとの遠大な構想が着々と進んでいる。

 

ロシアも黙ってはいない。

同じく羅津港の3号埠頭を利用する交渉が進められ、国境を越えてロシア極東のハサンとつながる52㌔の鉄道の補修工事も最近完了したと聞く。

これにより、朝鮮半島からヨーロッパに至る1万㌔を超える大陸横断鉄道構想が現実味を帯びてくる

また、8月末にイルクーツクで行なわれたロ朝首脳会談では、ロシアからの天然ガスを北朝鮮経由で韓国に送るパイプラインの敷設計画の基本合意も成された。

 

また、北朝鮮からロシア極東への労働者派遣が最近5千人も増加したようだが、同国の海外への労働者は6万~7万人にも達する勢いであり、その月給は北朝鮮当局がまとめて受け取ることで90%近くはピンハネされ、年間の総額では50億円前後が当局の懐に入ると推定されるから、これも並大抵の数字ではない。

 

核問題ではアメリカをはじめ世界を手玉に取り、しかも豊富な地下資源(一説によると、鉄鉱石の推定埋蔵量40億トン、石炭230億トン、他にも亜鉛、銅、レアメタル各種)をチラつかせて中国や他の国の歓心を引き・・・、とにかくやっかいこの上ない隣人であることは間違いなし。

 

拉致問題は、結局うやむやで尻すぼみ、貴重な地下資源は中国の一人占め、「過去の清算」だけはしっかり請求書を渡される日本・・・・。

壮大で無慈悲な外交パワーゲームが日々展開される中で、我が国がこんな無様にならないよう、政府のしっかりした戦略眼とタフな交渉能力を切に望むところです。

 


 

前回に続いて「北朝鮮」を巡る問題意識を書かせていただきました。

次回は、「南紀・串本への旅」か「ソフトバンク日本一おめでとう、福岡への旅」のいずれかを、12月中旬頃に予定しています。 

 

社長 西川正純  

11月15日、平壌の金日成競技場は異様な雰囲気に包まれていたらしい。

超満員の競技場は、赤くうねる人民の海の如くで、統制された5万人が絞り出す「チョソン イギラ(朝鮮 勝て)」の大音声は、地鳴りのようにとどろいた。

勢い込んで乗り込んだ日本からのサポーター150人のかすかな声援も、5万人の怒号にはなすすべもなかった。

サポーターが本来携行する応援道具の「日の丸」、「横断幕」、「鳴り物」の3点セットも

今回は持ち込み禁止。しかも、北朝鮮側の保安員が日本人サポーターの周りを取り囲み、

応援の腰を上げようとすると「立つな」という身振りで厳しく規制されるとあっては、どうにもならない。熱気盛んなサポーターも、さぞかしストレスが溜まったことであろうと同情に耐えない。

 

2014年ワールドカップ(W杯)のアジア3次予選C組で、日本は北朝鮮に0-1で敗北した。ザッケローニ監督が昨年就任してから無敗の神話が続いていたが、17戦目にして初黒星を喫した試合でもあった。

しかし、日本チームは来年6月に始まる最終予選への進出を既に確定しており、その意味での痛手ではなかったことが救いであった。

 

日本代表が北朝鮮で試合をするのは22年ぶり。

試合前日の14日に平壌に到着した日本代表チームは、早速空港で「洗礼」を受けた。

一行はシャツ1枚まで荷物を細かく調べられ、入国審査は4時間にも及んだというからこれは凄い。

後からの便で到着した一般客が1時間もしないうちに通関を終える様子を横目で見ていた選手の気持ちはいかばかりか。

この非礼ともいうべき「こわもて対応」は、かの国の尋常でない姿を改めて際立たせてくれた。

 

ところで、11月15日は「七五三」の日でもある。

“ 十五日 江戸で争う 肩車 ”、これは七五三を詠んだ江戸時代の川柳であるが、当時の江戸っ子は自分の子供を肩車にして自慢し合ったものでもあろうか。

 

当時13歳だった横田めぐみさんが新潟の海岸から北朝鮮に拉致されたのは、今から34年前の昭和52年の七五三の日である。

 

金日成競技場が真っ赤に染まり、金正日総書記は勇敢だと讃える「正日峰の雷鳴」の大合唱がこだまするのとは対照的に、新潟市の芸術文化会館では「忘れるな拉致 11・15

県民集会」が静かに催されていた。

既に70台後半の年齢に達した高齢の横田滋さん、早紀江さんご夫妻が参加者に語りかける言葉は悲痛きわまりないもので、それは会場の参加者のみならず国民全体に向けられた慟哭でもある。

 

父親、滋さん、「拉致問題は、子供がいなくなったというだけでなく、工作員が日本にやってきたという主権侵害の問題です。世論の後押しがなければ政府も交渉を進めるのが難しい」。

母親、早紀江さん、「私たちは普通のおばあちゃんとおじいちゃんです。深い知識もなく、

経験したことを伝えることしか出来ません。新潟の海でめぐみの名前を叫んで歩いた日から、一日一日が針のむしろのようでした。全国民が同じ思いで怒らなければ、北朝鮮には通じません。助けてください」。

 

その集会から数日後、複数の政府筋から次のような事実が明らかにされた。

 

北朝鮮が2005年に作成したとされる平壌の住民情報資料を、日本政府がおよそ1年前に入手したが、その中に横田めぐみさんと生年月日や家族の名前が一致する女性が含まれていることを確認していた。

捜査当局が情報の分析をしているが、同一人物と確定するには至っていない。

 

横田さんご夫妻にとって、一筋でも待ちに待った光明につながるかどうか、日本政府にとって真の正念場である。

国家の最大の使命は、その国民の財産と命を守ることであるから・・・。

 

 


 

 

つぶやきの前号から1ヶ月も空白が生じてしまいました。

最近のあちこちの集会で、「つぶやきを楽しみにしています」と言われ、背中を押されるようにしてやっと「3号」が出来上がり。

 

次回、もう一度同じタイトル「この やっかいな隣人 北朝鮮(2)」を書きます。

平成6年に、小生が北朝鮮に4泊5日で訪問したときのことを想起しながら・・・。

因みに、このとき平壌に降り立ったのは奇しくもこれまた11月15日でした。 

 

社長 西川正純  

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