11月15日、平壌の金日成競技場は異様な雰囲気に包まれていたらしい。
超満員の競技場は、赤くうねる人民の海の如くで、統制された5万人が絞り出す「チョソン イギラ(朝鮮 勝て)」の大音声は、地鳴りのようにとどろいた。
勢い込んで乗り込んだ日本からのサポーター150人のかすかな声援も、5万人の怒号にはなすすべもなかった。
サポーターが本来携行する応援道具の「日の丸」、「横断幕」、「鳴り物」の3点セットも
今回は持ち込み禁止。しかも、北朝鮮側の保安員が日本人サポーターの周りを取り囲み、
応援の腰を上げようとすると「立つな」という身振りで厳しく規制されるとあっては、どうにもならない。熱気盛んなサポーターも、さぞかしストレスが溜まったことであろうと同情に耐えない。
2014年ワールドカップ(W杯)のアジア3次予選C組で、日本は北朝鮮に0-1で敗北した。ザッケローニ監督が昨年就任してから無敗の神話が続いていたが、17戦目にして初黒星を喫した試合でもあった。
しかし、日本チームは来年6月に始まる最終予選への進出を既に確定しており、その意味での痛手ではなかったことが救いであった。
日本代表が北朝鮮で試合をするのは22年ぶり。
試合前日の14日に平壌に到着した日本代表チームは、早速空港で「洗礼」を受けた。
一行はシャツ1枚まで荷物を細かく調べられ、入国審査は4時間にも及んだというからこれは凄い。
後からの便で到着した一般客が1時間もしないうちに通関を終える様子を横目で見ていた選手の気持ちはいかばかりか。
この非礼ともいうべき「こわもて対応」は、かの国の尋常でない姿を改めて際立たせてくれた。
ところで、11月15日は「七五三」の日でもある。
“ 十五日 江戸で争う 肩車 ”、これは七五三を詠んだ江戸時代の川柳であるが、当時の江戸っ子は自分の子供を肩車にして自慢し合ったものでもあろうか。
当時13歳だった横田めぐみさんが新潟の海岸から北朝鮮に拉致されたのは、今から34年前の昭和52年の七五三の日である。
金日成競技場が真っ赤に染まり、金正日総書記は勇敢だと讃える「正日峰の雷鳴」の大合唱がこだまするのとは対照的に、新潟市の芸術文化会館では「忘れるな拉致 11・15
県民集会」が静かに催されていた。
既に70台後半の年齢に達した高齢の横田滋さん、早紀江さんご夫妻が参加者に語りかける言葉は悲痛きわまりないもので、それは会場の参加者のみならず国民全体に向けられた慟哭でもある。
父親、滋さん、「拉致問題は、子供がいなくなったというだけでなく、工作員が日本にやってきたという主権侵害の問題です。世論の後押しがなければ政府も交渉を進めるのが難しい」。
母親、早紀江さん、「私たちは普通のおばあちゃんとおじいちゃんです。深い知識もなく、
経験したことを伝えることしか出来ません。新潟の海でめぐみの名前を叫んで歩いた日から、一日一日が針のむしろのようでした。全国民が同じ思いで怒らなければ、北朝鮮には通じません。助けてください」。
その集会から数日後、複数の政府筋から次のような事実が明らかにされた。
北朝鮮が2005年に作成したとされる平壌の住民情報資料を、日本政府がおよそ1年前に入手したが、その中に横田めぐみさんと生年月日や家族の名前が一致する女性が含まれていることを確認していた。
捜査当局が情報の分析をしているが、同一人物と確定するには至っていない。
横田さんご夫妻にとって、一筋でも待ちに待った光明につながるかどうか、日本政府にとって真の正念場である。
国家の最大の使命は、その国民の財産と命を守ることであるから・・・。
つぶやきの前号から1ヶ月も空白が生じてしまいました。
最近のあちこちの集会で、「つぶやきを楽しみにしています」と言われ、背中を押されるようにしてやっと「3号」が出来上がり。
次回、もう一度同じタイトル「この やっかいな隣人 北朝鮮(2)」を書きます。
平成6年に、小生が北朝鮮に4泊5日で訪問したときのことを想起しながら・・・。
因みに、このとき平壌に降り立ったのは奇しくもこれまた11月15日でした。
社長 西川正純
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