前回の「つぶやき」を書いたのは1月下旬です。
次回は、2月の中旬に「(仮題)フクシマを考える」でと予告しながら、1ヶ月もずれ込んでしまいました。
今冬の大雪で取り紛れていた、と言うのは言い訳で、実はこの難解なテーマに向き合って立ち往生していたというのが正直なところです。
ご承知のように、柏崎は原子力発電所のある町です。
総発電量は約821万キロワット、規模において世界最大の原子力発電基地であり、東京都の電力需要のおおよそ3分の2を供給できると言えば分かりやすいでしょうか。
そうしたことからも「フクシマ」のことは他人事ではなく、連日のように報道される悲惨な様子を見るにつけても、いつかはこの「つぶやき」に取り上げるべきだと考えておりました。
あの大震災から一年が経ち、ボチボチかなとようやく重い腰を上げたものの、とてつもなく大きな命題にどこの切り口からアプローチしたらいいのか見当もつかず、出るのはため息ばかり・・・・。
そこで、自分の頭の整理の意味も込めて、いくつか思い浮かぶことを断片的に箇条書きにして「論点の整理」とするところから始めようと思います。
今回を「その-1」とし、今後も継続しながら少しづつでも山の頂に近づいていければと一歩を踏み出すことにします。
原発に対して怨嗟の声が高い中で、「それでも原発は必要ではないか・・」という姿勢を敢えて示すにはなかなか勇気が要る時代である。
福島県民の惨状を見るにつけ、私としても絶対の自信で言い切ることは出来ないが、世論が「脱原発」「嫌原発」一辺倒に傾斜してしまう危険性も同時に考えなければいけないと思う。
そんな視点に立ちながら、昨年来の「フクシマ」を巡る問題を私なりに整理してみたい。
- 今回の事故は誰の責任か
原発の設置のためには、言うまでもなく事業者は国(経済産業省)の許可を取得しなければならない。因みに、「核原料物資、核燃料物資及び原子炉の規制に関する法律」という、いかにもいかめしい法律がその法的な根拠である。
それ以外にも設計上の構造や設備が原子炉による災害の防止に適していなければ設置許可はおりないし、運転開始前には溶接の不具合に至るまで大変詳細な検査をクリアーする必要がある。運転開始後の定期検査においても同様の関門があることは言うまでもない。
法的な規制はこれだけではない。
安全確保を担う機関としての原子力安全委員会の設置を定めた「委員会設置法」、
「原子力基本法」、あるいは災害時に備えた「原子力災害対策特別措置法」、「原子力損害の賠償に関する法律」・・・、数多の法制が設けられている。
ひとたび原子力災害が起こったときは、その被害や影響が甚大なものになるという前提に立ってのことである。
こうした厳しい制度に囲われながら、いわば国が自らの権限と責任の基で国民の安全を担保しながら原子力行政を司ってきたものと私は理解している。
勿論、事業者である東京電力には原発を直接手がけていた当事者として、国とは別の立場での大きな責任が所在する。
「安全神話」にただ身を委ねることなく、「電源や水源の多様化」、「原子力格納容器と建屋の強化」、「水素爆発を防ぐ水素再結合器の設置」など、さらに十重二十重の措置が取れなかったものか、事後の論理だけで片付けるにはあまりにも大きな代償であった。
今なお先の見通し難い福島第1原発の事故処理に引き続き命がけで当たる一方で、膨大な数の方々との損害賠償の話し合いがこれからも延々と続く。
その役割りは、やはり東京電力が担うしかない。一歩づつの匍匐前進を覚悟してことにあたってもらいたい。
話は戻るが、国の立場である。
電力事業者と二人三脚での原発への取り組みをしてきた政府は、本来であれば東京電力とともにその責めを負う立場だと思う。にもかかわらず、電力会社に向かってやや居丈高とも思える国の姿には大きな違和感がある。
今回の原発事故のそもそもの原因はどこにあったのか、その責任はどこに所在するのか、この「スタートライン」が今もって明白に共有されていないのではないか。そこをはっきりさせておかないと、これから様々に打たれる手も何となく接木細工のようにチグハグなものになりかねないと憂慮している。
「つぶやき」は、いたずらに冗長にならないようにと心がけていますが、ことが「原発」になると、短い言葉で簡潔にとはなかなかいかないものです。
やや仕切れトンボですが、今回はここで打ち止めにし、近日中に「その2」を続けることとします。
一昨日の国会で、枝野経済産業相が今夏の電力需給について「供給量の積み増しと、効果的な節電方法を詰めている。電力使用制限令や計画停電に至らずに乗り切りたい」と
答弁しましたが、やや希望的な観測に過ぎないのではないかと懸念しています。
社長 西川 正純
コメントする