今冬の大雪に泣かされた新潟にも、ようやく春の訪れが感じられるようになった。
卒業、入学、就職、転勤・・・、万物が躍動するこの時期に敢えて背を向けるかのように、昨26日の未明に当地の原子力発電所6号機が定期検査のため運転を停止した。
これで東京電力が保有する17基の原子力発電がすべて止まったことになる。
国内54基の原発で唯一稼働中の北海道電力泊原発の3号機も、青葉の薫る5月5日には定検入りが予定され、「原発ゼロ」の状態が現実のものとして迫ってくる。
「殆んどの原発が停止しているのに、日本の電気は何とかなっているじゃない。このまま原発なしでもやっていけるんじゃないか・・・?」、そういう声もきっと日増しに大きくなってくるだろう。
そうした意見が妥当なものか、原発ゼロが現実に可能なのか、ここは感情論を抜きにしてじっくり考えてみよう。
日本で初めて原発が稼動したのは1970年(昭和45年)で、かれこれ40年前である。
この40年の間に電力の供給力は225%も増加し、日本の国力、産業基盤を支える大きな原動力となった。
その電力供給量アップのうち40%以上が原子力発電であり、我々の今日の生活の豊かさを築いた礎とも言える。
仮に原発が全て止まるということになると、この40年間に増強してきた電力キャパの半分近くを放棄してしまうということでもあるから、これはただ事ではない。
原発による福島の被害は、我々の想像の域をはるかに超えて広範囲に、しかも長期的に及び、多くの住民の方々が毎日の生活を営んでいたところへの帰郷が叶うのかどうか、それさえも定かでない。
「命と経済とどっちが大事か」と迫られれば、言葉に窮してしまう。
そうした辛い現実を前にしては、もはやそこで思考停止になってしまいそうだが、もう一方の現実にも目を向け頭を巡らせてみたい。
日本の電力需給は、現在明らかに綱渡りの状態である。
「何とかなっている」のは、各企業が急場しのぎのためにと無理に無理を重ねる努力をし、各家庭においても涙ぐましい節電に励み、緊急避難的に辛うじてギリギリのバランスを保っているおかげである。
従って、無理を続けていればあちこちにしわ寄せが起き、きしみも生じる。
続出する原発の停止分をカバーするため、本来は引退も間近かだった老朽火力発電が急遽戦列に復帰。
当然のことながら効率の良くない電力を産み出しながら、何とか一時的に助っ人の役割りを担っているに過ぎない。
しかし電気の「量のカバー」には役立っているものの、火力発電が増えることによる燃料費の急増が座視出来ない状況になりつつある。
火力発電の燃料の大部分はLNG(液化天然ガス)だが、これは勿論すべて海外からの輸入。
おかげで燃料の輸入額が年間3兆円から4兆円も増えたと言うから何とも凄まじい。
急場しのぎのためには「金に糸目をつけないで」と頑張ってはいるものの、これが恒常的になってしまってはいわば「国富のたれ流し」となるわけで、いずれは我が国の財布も悲鳴をあげることは必定。
燃料費の増大が電気料にはね返り、コスト増に耐えかねた企業の海外脱出、国内の雇用や賃金にもマイナスの影響と、負の連鎖につながってくる。
福島の事故を目の辺りにすれば、誰しもが原子力から逃げ出したい気持ちになることは充分理解できる。
「原発ゼロ」での社会生活、経済活動が可能ならそれに越したことはないと私も観念的には思う。
しかし、原子力エネルギーを排除することによる影響、あるいは不確実性、さらにはリスク、そうした議論を省略しての「脱原発」では、これはこれで別の意味での危うさも
潜在するのではないだろうか。
日本の電力源として自然エネルギーにはどの程度まで依存が出来るのか、その場合の電気料へのはね返りや、実現への工程はどうなるのか。
そのときの日本経済への影響はどういう形で投影されてくるのか・・・などなど、数多くの未知の問いかけが我々に突きつけられている。
世の中の事象は単純に「白か黒か」だけでは割り切れない複合要素に包まれている。
原発に賛成か反対か、その二者択一論、二元論だけでは片付かない多元方程式で考えなければならない。
それだけに、未曾有の難局に臨んで国民が正しい判断をするための論点整理が是非とも
必要である。
今、一番避けなければならない事態は、国が何らの将来方向も出さない中で原子力は止まったまま、そして国民も企業もひたすらに節電だけ強いられて、ズルズルと経済が沈下していくことではないのか。
国民は、「決めることの出来る政治」を渇望しているはずである。
前回に続いて、「原子力」に関わる重たいテーマでした。
次回を書く頃には、寒かった日本列島にも桜前線が北上しているでしょう。
少し明るい話題でいきたいものです。
4月10日前後に「(仮題)圧巻!柏崎の海上花火は日本一」を予定しています。
社長 西川 正純
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